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日本のバーゲンブック流通略史
 

日本のバーゲンブック流通略史

(株)八木書店・第二出版販売(株) 八木壮一

 八木書店は、昭和9年(1934)に創業者八木敏夫が神保町の古書店一誠堂から独立、「日本古書通信」を創刊するとともに古書店六甲書房を開業したことにはじまります。創業時から「古書通信」に出版社の見切品を扱う卸店の目録を掲載するとともに、自らも出版社の過剰在庫を買い取り、同業の古書店に卸しました。

 昭和55年(1980)新再販契約が日本の出版業界に取り入れられて以来、私は折にふれバーゲンブックについて話す機会、書く機会を得ました。2005年の「弾力運用レポート」には「出版社の在庫について」と「アメリカのバーゲンブック」を書きましたが、今回は2006年6月に「21世紀の出版を考える会」で話した日本のバーゲンブック流通の歴史に加除訂正を加えて、特価本について書きました。バーゲンブックについてご理解を深めていただければと思っています。

 さて、見込み生産品に売れ残りが出ることは仕方ありません。在庫を破棄することはもったいないことで、売れ残り品を活かすことは明治時代から行われていました。社会的公共財を使用して生産した物は、何らかの形で消費者に還元すべきではないかと私は考えます。

 そもそも、本の値引き販売には三通りあると考えます。一つはメーカーである出版社のつけた値、つまり定価を引いて売る値引き販売。二つめは初めから安く売ることを前提にした、現在の言葉で言えば部分再販本。三つめは定価拘束を外して自由価格で販売する、現在では時限再販本です。この稿では主に近代産業のはじまった明治以来の三つめのバーゲンブックについて取り上げてみます。

1 江戸から明治へ

 日本の流通システムは中世末の「座」にはじまります。このシステムの延長が江戸時代の組合(株仲間)です。同種企業が団結し、助け合ってその権益を独占するものです。そのためルールを破ったり、不義理なことをした場合は、「満座のなかでお笑いくだされ候」との一札をいれたといわれます。組合の全員の前で嘲笑されることはその組合にいられなくなり、商売ができなくなることです。商人道と株仲間に忠実にならざるをえないわけです。

 現代はTOBまで行われる生き馬の目を抜く資本主義社会ですが、再販価格制度と委託販売が存在する出版界に、この江戸時代の名残のようなものを感じつつ、出版流通の歴史を振り返ってみます。

 江戸には地域別に三つの書籍問屋組合がありましたが、これらはいずれも儒書や仏教書で、京大阪で出版されたものが下ってきたものです。顧客も武士や富裕な商人に限られていました。江戸庶民が力をつけた江戸中期から女、子どもを相手にする錦絵や草双紙が普及しはじめます。黄表紙が全盛となる寛政年間には「地本草紙問屋仲間」が結成され、草双紙類は、当時の露天商や行商人の貸し本屋が主として読者に配本していたと思われます。書籍商以外の第二の流通経路です。この地本草紙問屋仲間が明治の「東京地本彫画営業組合」へと繋がり、現在の「全国出版物卸商業組合」へとつづいてきたのです。

 明治にはいり、新政府は開版の届け、江戸時代の株仲間の権利保護と出版統制の制度を踏襲して、さらに「定価」表記の明記を義務づけています。

 明治20年(1887)ころまでに書籍問屋の版元は印刷・製本技術の革新、新時代の思想・学問の変化に対応できずにほとんど消滅してしまいました。しかし、地本問屋の流れをくむ版元は暦、講談本、実話読物、実用書、絵本、ポンチ絵などのいわゆる赤本を製作・販売して東京地本彫画営業組合を明治7年(1874)に設立、その取引は組合市会を通して正味が安く、買い切り扱いでした。

 明治20年(1887)、博文館が創業して大量出版を行い、日本全国への販売網も構築して他社の書籍や雑誌までも大量に扱いました。明治24年(1891)には流通部門として神保町に東京堂を創立、近代的な出版流通の起点となっています。雑誌の委託販売とともに書籍の委託販売もはじまっています。

 委託販売の普及は雑誌、書籍ともに売れ残り、返品の問題がでてきます。その売れ残った雑誌を地本彫画営業組合員である上田屋などが買受け、街頭や鉄道の中などで販売しています。その後、実業の日本社なども本を活かすという意味で同じような処置をとり、のちには新刊書店や古本屋にも販売して、地方問屋の出版物とともに地本問屋の拡大は大正時代につづいていきます。また書籍の返本を買受け、古本屋などに売る河野成光館などもでてきました。その販路は多様で書店ばかりでなく、露天商、荒物屋、駄菓子屋など全国に及んでいます。明治44年(1911)に大阪の立川文明堂から出版された「立川文庫」を全国にたちまち普及させたのもこのルートです。

 特売も行われています。博文館発行の雑誌「太陽」は一時220万部売れたといわれる雑誌ですが、明治39年5月号では征露軍隊総凱旋、博文館新築落成祝賀記念「博文館図書大減売」として河口慧海著「西蔵旅行記上・下」正価2円、減価1円16銭など437点の書籍の折り込み特売広告だしています。(挿図1)

 明治20年(1887)に近代出版産業者は東京書籍出版営業者組合を結成、明治35年(1902)1月に「東京書籍組合」に名称変更、昭和16年(1941)の戦時体制までつづくことになります。地本問屋は規制されることを恐れて組合への加入を躊躇する議論があったといわれます。

  特筆すべきは、医書組合が明治25年(1892)に定価販売しない店には卸売りしないことを決めたことです。また、明治25年(1894)に大取次東京堂などの提案で「東京雑誌売捌営業者組合」が設立され、定価厳守を促進するものの、明治31年(1898)には予期した実績を挙げられず解散しています。

2 大正期

 大正2年(1913)3月、雑誌の割引乱売競争防止を目的として、大手雑誌取次業者東京堂の大野孫平らが中心となって雑誌出版社と取次が「東京雑誌組合」を設立、(1918年東京雑誌協会、1924年日本雑誌協会に改称、1940年解散)その規約第5条に、「本組合ハ雑誌ノ濫売及ビ売掛代金遅滞ノ弊害ナキヲ期スルガ為別ニ販売規定ヲ設ク」とあります。取次店が小売店の廉売競争で倒産して回収が滞りはじめたために、利益を確保させるために定価販売を奨励したと言われています。

 大正4年(1915)10月に岩波書店は発行図書の奥付に「本店の出版物はすべて定価販売卸実行被下度候」と印刷し、全国の書店に同社の出版物の定価販売励行を要請(岩波書店の定価販売宣言は単独メーカーによる再販売価格維持行為の最初のケースとされています)。

 大正7年(1918)地本組合員は月遅れ雑誌を「共成会」という匿名組合をつくり、共同仕入を行い、「東京図書株式会社」を設立して残本を前契約で買い切り、半年後とか一年後に構成員となっている月遅れ雑誌業者に再配分して、全国に行き渡らせました。地本業者、赤本業者と呼ばれていたが、このころから特価本業者と呼ばれるようになりました。

 書籍は地本組合員が多分野の文庫を出版して一般の書籍雑誌店の他に地方の荒物屋、玩具店、古本店、露店商、貸本屋さらに通信販売業者、外交販売業者などと広く取引するようになりました。地本組合員の取引は入銀制で行われていましたが、市会取引も盛んでした。

 さらに、大正8年(1919)7月大手雑誌取次が中心となって雑誌の定価販売の励行を取り決め、監視員制度まで設けて実施を計りました。「乱売」「不正競争」あるいは「違反者」「監視員制度」「処分」という表現が諸文献に頻繁に出てくるように、業界の努力にもかかわらず定価販売が必ずしもスムーズにかつ「厳正励行」されたわけではないようです。

 さらに、大正8年(1919)東京書籍商組合は臨時総会を開き、書籍の定価販売を根幹とする規約の改正、販売規定を制定して、同年12月から実施しました。奥付の定価記載、定価販売の励行、割引販売、景品付販売の禁止、組合員の発行図書の販売は原則として組合加入者に限ることを定め、販売規定では定価表示の明記、割引規定、見切品仕入・汚損本規定、注文品の返品禁止規定、違背者の処分を定めています。以後定価販売の実施と、排他的傾向になっていきます。しかし、その規定には「出版後1年ヲ経過シタル図書ハ出版社ノ任意ニ依リ見切品ト為スコトヲ得」という条文があり、奥付に別掲の印を押すことを決めています(挿図2)。出版社の意志により価格を引き下げることができる条を販売規定に入れ、版元の在庫処分に弾力的な考えを示しています。

 しかし、大正12年(1923)の関東大震災で出版界、地本組合員も壊滅的な打撃を受けました。そして復旧に努力している大正の終わり15年の末に突如として円本の波が起こってきます。

3 昭和元年から終戦まで

 大正末から出はじめた円本は、改造社の「現代日本文学全集」が当時の常識の半値以下の一冊一円で60万部の予約を取り、新潮社「世界文学全集」、春秋社「世界大思想全集」、春陽堂「明治大正文学全集」「日本戯曲全集」など昭和5,6年ごろまでに300種以上が発行されました。

 昭和初期の円本合戦のあと昭和5,6年ごろになると返本の山となり、大量の出版物が返品となって版元の倉庫にあふれます。これらを河野書店などが買受け、それを帝国図書普及会などがデパートさらに中国にまで出かけて特価本即売会を行い、また昭和9年(1934)朝日新聞などに一頁大の通信販売広告を掲載しました(挿図3)。児童文庫(アルス)30万部を一冊3円で酒井久三郎、明治大正文学全集(春陽堂)30万部を春江堂が7銭5厘、大衆文学全集(平凡社)20万部を河野書店が7銭で引き取ったなどの記録があります。『古本年鑑』の昭和8年には、全国の見切本数物卸商53軒が記載されています。また『日本古書通信』は昭和9年以来、主に学術書の見切本速報を掲載、古書店に販売しました。つまりストックになった本を版元は自由に販売していたのです。

 一方大衆雑誌も量産に拍車をかけ、大正14年創刊の「キング」(講談社)は昭和2年には発行部数100万部と称し、新潮社も昭和7年「日の出」を創刊するなど、雑誌の競争も厳しさを増し、円本の洪水プラス雑誌の量産で出版界はもちろん読書界も混乱をきたしました。

  昭和5年(1930)、飯田平安堂書店開店満三周年記念書籍大特売の新聞広告を見ると6割から3割引など、多くの出版社の本が並んでいます。(挿図4)

 岩波書店は昭和3年(1928)8月に開店15周年記念特売を行いますが、成績は悪かったようです。しかし、昭和8年(1933)10月の岩波書店創業20周年記念の特売は非常の好況でした。宣伝に力を注ぎ、東西「朝日」「大阪毎日」「東京日日」に全ページの広告をしたり、解説付目録3万部を配り、販売店に便宜を与えたり、また割引は在庫数、需要度を考慮して、最大4割5分引、最小1割7分引の勉強をしたりした結果、3週間の短時日間に、発売書目752点(発行後1年以内のもの・全集・講座類を除く)が11万800部ばかり売れ、その価格18万2千円ほどに及び当時の一ヶ月出品平均数の6〜7倍もある実に珍しい売上高でした。(岩波茂雄伝、岩波書店八十年史より)(挿図5)

 昭和9年(1933)11月図書祭記念に東京出版協会、全国書籍商組合連合会が主催して在庫特売を行い、朝日新聞などに3割または8割引きの超特価という広告を行い、特売図書目録100万部頒布、各地の新刊組合が呼応してこの催しに参加などの記録があります。(挿図6)さらに、朝日新聞には6月改造社創業15年記念半価大提供、10月誠文堂新光社名著均一特売、昭和10年4月早稲田大学出版部創業50周年記念大特価提供などの広告が掲載されています。

 昭和16年(1941)戦時体制とともに販売機構が統合され日配ができると、商工省の指示により、赤本ルートの卸店も日配の傘下に入り、特設営業所として河野書店の店舗が「外神田営業所」、大阪には松要書店の店舗が「博労町営業所」として設けられました。(「日配時代史」出版ニュース社)

4 昭和20年以降昭和28年独禁法改正まで

 昭和22年(1947)に独占禁止法が制定されます。

 昭和24年3月に日配は閉鎖機関となり、日販、東販、大阪屋、日教販、中央社、栗田そのほか地方取次ができて今日につながる全国ネットの販売圏がスタートすると共に新刊業界が組織化されて行きました。

 一方、赤本の流れを汲む組織として東京出版物卸商業組合が結成され、別にあったアメ横中心に結成された全日本特価書籍卸商業協同組合と昭和27年合併して「全国出版物卸商協同組合」(全版組合)が組織されました。戦後の出版社の乱立と、大量生産の書籍が、景気の変動により昭和25年ごろより特価として大量に出回り、古書店、デパートの即売会などで全版組合員により販売されました。また、貸本ブームで漫画、実用書、絵本などの扱いで全版組合員は業績を伸ばしました。神保町のすずらん通りの裏側には貸し本屋専門の卸屋がならんでいたものです。

 この後、大手出版社の整理などもあり、八木書店と某社は全国を東西に分けて即売会を開きますが、その後の新商品の出回り不足と資本力の弱さ、さらに売上の40%も経費がかかって某社は閉鎖してしまいました。志は「出版界全体の膨大なデッドストックを倒産しなければ特価市場に出せないことから、有利にデッドストックを処理する方法を出版社と特価書籍業者が手を握ってよく考えるべきである」と主張していました。

5 昭和28年独禁法改正から昭和55年新再販まで

 昭和28年(1953)9月、独占禁止法改正法が施行され、法第24条の2(再販売価格維持契約)の規定を設け、化粧品などの指定再販商品と別に、出版物など著作物が法定再販商品として適用除外になり、再販売価格維持=定価販売が認められました。

 昭和28年(1953)11月 販売競争が激化し、書店の割引販売が表面化します。出版取次懇話会は定価販売の懇請状を全国小売書店に発送。東京出版物小売業組合は割引販売防止のための独占禁止法改正案に基く「再販売価格維持契約」の実施を計画しました。業界で実際に再販契約書を取り交わしたのは昭和31年になります。

 全版組合員は貸本店向け漫画また実用書、絵本さらに見切書籍雑誌の商いが多く、この改正に注意を払いませんでした。昭和27,28年から35年までが貸本屋の全盛時代で、同時に最後の赤本屋の時代でもありました。赤本屋で売れていた白土三平、水木しげる、楳図かずお、水島新司などの著書が漸次大手出版社で刊行され、大手取次店で扱うようになったのです。

 昭和31年(1956)4月、再販売価格維持契約励行委員会が出版4団体の構成で発足しています。その後新刊書店の組合が中心となって再販制の運用が硬直的になって行き、長期、常備寄託も終わり、新刊書店に並んでいない本をディスカウントして売却した版元に対しても再販励行委員会名で注意状が送られ、再販を崩す行為として監視の目をむけられるようになりました。千丈の堤も蟻の穴から崩れるとする「出版物再販白書―出版物の再販制度を堅持するために」(東京都再販励行委員会、昭和43年12月15日)などが発行され、新本特価市を行う百貨店に警告書やピケが張られ、出品版元にも「特価市場で貴社の出版物が頻繁に販売されることへの御注意」(再販本部励行委員会、昭和45年5月10日)など出品を控えるような要請書が送られました。(挿図7)

 このような中で、明治からの特価書籍を扱ってきた全版組合参加の卸店は、書籍から見切り雑誌へ扱いを移行していきます。出回り出版物の減少と書籍は一点一点性格が異なり、売れ行き部数も異なるので、扱う店が減っていったと思われます。その流れの中で八木書店とその関連会社の第二出版販売は書籍の取り扱いを続け、全国の百貨店さらに大きく伸びてきた量販店で新本の特価市を開いていきました。(挿図8)

 昭和48年(1973)8月 公取委は「再販制度の改正および不当廉売の規制について」を発表。この中で再販制度の縮小を明らかにしましたが、法定再販については、「その文化的などの見地から、当面存続させる」としました。

 昭和53年(1978)10月 橋口公取委委員長が2大取次の寡占問題と優越的地位の濫用の疑いがあることと、出版物とレコード盤の適用除外再販制度つまり「出版物再販制の見直し」の発言が12日に報道され、業界は新再販への移行を行いました。さらに橋口委員長の「第二市場」の必要性の発言などがつづきました。

6 昭和55年新再販以降

 昭和55年(1980)10月 再販売価格維持契約委員会(再販委員会)が再販売価格維持契約書の改訂ヒナ型を発表しました。「定価」と表示した書籍のみが再販の対象になり、その表示の抹消、取次店、小売店など販売先へ通知した場合には時限再販商品としてメーカーである出版社が末端価格の拘束を解いた商品とする、また価、¥など定価以外の表示の書籍、雑誌は販売店の自由価格で販売してよいとされました。

 しかし、実際問題として抹消手続きの煩雑さ、通知の義務化などは非再販商品流通の抑制効果をねらったこととして公取から指摘され、出版業界はその弾力運用を書籍のバーゲンブックを扱ってきた八木書店等を交えて検討を重ねました。

 昭和57年(1982)7月に八木書店は、出版社400社に非再販本販売の案内状を送り、以後、年に数回イベントなどの折をみて案内を続けています。

 昭和59年(1984)7月 再販委員会が「出版物の価格表示等に関する自主基準」を作成、公取委が了承。その後実施要領も作成、公取委が了承。リクルートでバーゲンブックフェアーが開催されました。それがサンシャイン、都立産業会館での出版業界でのバーゲンブックフェアーにつながり、東京国際ブックフェアーに続いています。東京国際ブックフェアーでは書店組合とともに、八木書店、第二出版、さらに非再販本流通懇談会などで、共同に出展しております。

 新再販になってから、取次店扱いの自由価格本フェアー、新刊書店の非再販本扱い、出版社独自の非再販本扱いなどが試みられてきましたが、委託扱い、注文品のみの扱いは発展しないできています。しかし、公取は神保町ブックフェステイバル、謝恩価格本フェアー、ブックハウス神保町など常に新しい試みは評価してきています。

 この間平成3年(1991)7月 公取委は独占禁止法適用除外の見直し「政府規制等と競争政策に関する研究会」(鶴田研究会)報告を公表して、平成5年(1993)9月に公取委、鶴田研究会の下に「再販問題検討小委員会」(金子晃座長)が設置されました。平成10年(1998)1月に公取委は再販規制研報告書および資料篇を公表して、1.競争政策の観点からは、現時点で著作物再販制度を維持すべき理由に乏しく、基本的には廃止の方向で検討するとしながらも、2.文化・公共的観点から、配慮する必要があり、直ちに廃止することには問題があるとして、3.各種の弊害の是正に真剣な取り組みを開始すべきものと、6項目の提案が行われました。

 平成13年(2001)3月、公取委は再販制度の当面存置を公表し、具体的には時限再販、部分再販等の再販制度の運用の弾力化など是正6項目を公表しました。

 この間、百貨店、量販店の催事に加えて、大型新刊書店でのバーゲンブックフェアーが第二出版によって全国で開かれるようになりました(挿図9)。出版社の理解も深まり、八木書店の商品センターは自動倉庫の設置、単品管理の徹底など物流の合理化を行い、昭和55年新再販施行前には考えられなかったような質と量の出版物がバーゲンブックとして出回り、明治以来のバーゲンブック扱い量では最大となっています。また、八木書店などの供給でアマゾンなどインターネットでのバーゲンブックも展開されるようになりました。

 公正取引委員会の平成16年(2004)、平成18年(2006)のモニターアンケート調査でもバーゲンブックの認知度は上がっています。

 平成2年(1990)新刊点数38,680点、出回り部数14億冊、販売部数9億冊、部数返品率35.6%が15年後の2005年には新刊点数76,528点、出回り部数12億冊、販売部数7億冊、部数返品率38%となっています。出回り部数と販売部数の差5億冊は変化していません。

 今後は出版契約の発行印税から売上印税への移行、欧米のように残品処分について印税支払を別計算にするなどの普及、また出版社の株式上場にともなう在庫資産をゼロにする断裁を認めない監査法人の指摘を待つまでもなく、在庫評価と在庫量そして在庫経費の問題を出版社は意識して行く必要など、多くの問題が表面化しつつあります。これらを解決することは、消費者、読者のいたずらに在庫を寝かせ、断裁処分することへの「もったいない」という思いに答え、省資源などの観点からも、有効利用が求められていると考えております。結果として読者を広げる事にもなると思います。

参考文献

 全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み 全国出版物卸商業協同組合 1981年(昭56)
書籍再販と流通寡占 木下修著 アルメディア 1997年(平9)
弾力運用レポート2005年の年表(平成17年)

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